『火花』又吉直樹 文藝春秋刊~「その人の目で自分を」

小さな事務所に所属する漫才コンビ“スパークス”の徳永は、熱海の花火会場を目指し歩く人たちへ向けた舞台に立つ。

〈沿道から夜空を見上げる人たちの顔は、赤や青や緑など様々な色に光ったので、彼等を照らす本体が気になり、二度目の爆音が鳴った時、思わず後ろを振り返ると、幻のように鮮やかな花火が夜空一面に咲いて〉

冒頭から少ない文字数で、その場の位置関係や空気感が鮮明な立体感をもってたちあがる。

そんな現場で出会った大阪の大手事務所所属“あほんだら”の神谷は、徳永より四歳年上の二四歳。イベント後に熱海で飲んだことから、先輩をほしがっていた徳永と、先輩面し慣れているわけでもない神谷の緩い師弟関係が始まる。〈この人に褒められたい、この人には嫌われたくない、そう思わせる何かがあった。〉

お笑い芸人たちが登場する話なので当然、彼等によりギャグが展開されるシーンがある。たとえば「吉祥寺に住む。どこおる? 夥しい数の桃」という神谷からのメールに対し、徳永は「高円寺です。今から吉祥寺向かいます。 泣き喚く金木犀」と返信。文の終わりに変わったキーワードを付与するというよくわからないメールのやりとりはその後も頻出するが、読者が小説として読む段階ではその面白さも失われる。端的に言うと二人の間で面白いとされているやりとりが、意外とおもしろくない。

でも学生時代とか、実際にこういうやりとりがすごくおもしろかったりして、それを小説の中で文章化してみたものの、書いてすぐ消去した記憶が何度かある。たとえば僕の大学の後輩にマスオという男がいて、独特の間をとる彼のしゃべりかたはおもしろいのだけれど、一〇年近く前の当時はそのニュアンスをうまく文章としておとしこめなかったし、今もできない。マスオのおもしろさを表現しようと躍起になるあまり色々な説明を足し算で付け加え膨らませても、だったらその分量を他の描写にさいたほうがいいだろうというふうに判断してしまうから、けっきょく小説家デビューして一〇年以上経つ今も僕はマスオを小説の中で書き表すことができない。

笑わせようとするシーンを読んでいても全然笑えないというか、それが笑いを意図して発された言葉だと事後的に認識させられる羽目にたびたび陥るのも、登場人物たちがまだ売れない芸人であるから読者を笑わせる能力が低いのか、もしくは口語の笑いをリアルに表現するのに小説という表現形式があっていないのか、いまいちわからない。

ちょっと本を読む人だったら、町田康作品の登場人物のような、読んでいて確実に笑えるセリフを言わせようとも考えるだろう。しかし、作者はそうしない。つまりそれは、ここで表現したいことが、ことの証左だろう。作中作というか、小説の中に紡がれた“笑い”で読者を笑わせようとしているのではなく、あくまでも求道的に笑いを追い求めている主人公たちの姿を描きだすことに作者は徹していて、その意図は大成功している。

〈あらゆる日常の行動は全て漫才のためにあんねん。だから、お前の行動の全ては既に漫才の一部やねん〉〈本当の漫才師というのは、極端な話、野菜を売ってても漫才師やねん〉。神谷は初対面の時に、徳永にそう熱く語っている。関係性が深くなっても同じで、〈共感至上主義の奴等って気持ち悪いやん?~阿呆でもわかるから、依存しやすい強い感覚ではあるんやけど、創作に携わる人間はどこかで卒業せなあかんやろ〉〈鬱陶しい年寄りの批評家が多い分野はほとんどが衰退する~批評をやり始めたら漫才師としての能力は絶対に落ちる〉。

お笑いを求めるがあまりマッチョに、求道的になる姿は、大多数に向けたメディアで人気をとろうとする芸人像とはかけ離れている。笑わそうとしている対象は誰なのか、否、笑わせるのでもない、笑いという芸を見せつけようとしている対象が誰であるのか。それが複雑にぼやけていく感覚は、小説だけ書いてきた自分も幾度となく経験してきたし、ものづくりや他の仕事でも、なにかを追い求めてきた人なら皆経験してきただろう。いわば、求道者たちの中に宿る普遍的な“神”を、たいへん優れた表現で本作は描きだしている。

神は身近にいる? その気づきを自分に対して隠そうともする。小さな事務所にいる徳永は、先輩がほしかった。そんな中で出会った神谷になにか尋常ならざるものを感じ、売れない頃も、そして多少売れるようになってからも、その人の目をとおした価値観で己を見ることをやめられない。

〈新ネタなどは毎日でも作れる。漫才はそういうことではないのだ。そんな感覚でやっているから、いつまで経っても僕たちには自分達のリズムというものが見つからない〉。ある日、不満を感じた相方を前に、徳永はそう思う。その持論や信念の強さは、まるで神谷のようだ。

ひどく具体性をもった大いなる存在は、もはやただの他事務所の先輩なのかどうかもわからない。しかしそういった存在を通してでしか成長できない時期は誰にも確実にあるし、ひょっとしたら人生のどのフェーズでも、そういったことは続くのかもしれない。

己の目を神谷の目に同化させてゆく徳永の第一の目的はもちろん、相方の山下とお笑いの世界でのしあがることだ。いくら他事務所の先輩神谷を心酔しても、それが直接的に彼自身の人生を次のステージへと推進させるわけではない。後半から徐々に、近すぎて心酔できもしないが大切な存在である相方との衝突、そしてわかりあいが描かれてゆく。神谷の目を借りることによりある意味視野を狭め、観念的な世界をつきつめてきた徳永も、相方と地に足のついた漫才をするその瞬間は、神谷からの影響が剥がれ落ちている。そういったことを繰り返すうちに、徳永は徳永自身の目を獲得してゆくのだ。

ラストは、単純なヒューマニズムでも、単純な笑いでもない展開。超人気お笑い芸人という、テクストの外側にある情報が多すぎる作者が描くには、これ以上ないくらいすばらしい着地点だと感激した。

※初出:「新潮」2015年6月号

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