『僕が殺した人と僕を殺した人』東山彰良 文藝春秋刊

二〇一五年、アメリカの各州で少年ばかりを七人手にかけてきた殺人鬼、「袋男(サックマン)」なる男が、捕まる。台湾の伝統的な人形劇、布袋劇をやっていると自己紹介し、新たに十一歳の少年を車で連れ去ろうとしたところを、警官におさえられたのだ。その後の取り調べでは、あっさりと過去の犯行を認める。国際弁護士である「わたし」が事件について誰よりも詳しく理解できたのは、サックマンの事件に対する饒舌ぶりだけが理由ではない。約三十年前の一九八四年、「わたし」はサックマンを知っていた。「わたしたち」は十三歳だった。

物語の前半では、一九八四年の台湾を舞台の中心として、ユンによる「ぼく」という語りで話は進む。後半になるにつれ、二〇一五、六年の「わたし」のパートが増えてゆく。物語の前半、一九八四年の台湾では、主に三人の少年が登場する。とある事情により居候の身にならざるをえなくなったユンと、ユンの居候先の長男であり幼馴染みのアガン。そして、不良で喧嘩の強いジェイ。三人の少年はそれぞれに家庭に問題を抱えているものの、不満や不足感を怒りや活発的なエネルギーに変えることで、日々をのりきってゆく。当時の台湾で、アメリカの文化であるブレイクダンスの練習に明け暮れる少年たちの描写というリアリティーは、本作を読んで初めて体感できたものだ。

ジェイの祖父は布袋劇の名手であるが、ある日の大事な出番の前に、倒れてしまう。のっぴきならない状況下で、「ぼく」たるユンは、ジェイや彼の祖父を助けるためもあり、用意もなく舞台に飛び出し、「冷星風雲」なる即興の布袋劇を行い、なんとかその場を切り抜ける。ジェイは感謝し、友情を深めてゆく。そんな少年たち三人はある時点で、とある問題を解決するために、後ろ暗い計画をたてる。

三十年の時を経て、あの時の少年が凶悪な殺人鬼になり、「わたし」は国際弁護士、もう一人は成功した商売人になっている。たとえば、すっかり中年になっているその中の一人が、左目の加齢黄斑変性の手術を日本で受けているが、そういった描写が、少年を中年に変えてしまった時の経過という単なるノスタルジーでは済まされていない。「わたし」は、その病気がとある人物から昔「煉瓦で殴られた」せいではないかと指摘する。時の経過ですべてを曖昧にしてしまうのではなく、今起こっていることの原因は過去にある、という冷静で緻密な観察眼をもった登場人物や作者の書き方により、この物語は綴られている。サックマンも、脳の損傷による凶暴化を指摘される。「わたし」は、三十年前の「脳の損傷」が起こってしまった出来事を知っている。それに「わたし」自身もかかわっている。つまり、三十年前のあの出来事のせいで、現代のアメリカで七人もの少年たちが命を絶たれてしまったのではないか。

事象を把握する人間の観察眼のあり方は個々人で異なり、それこそが本質的なミステリーだ。東山作品は、直木賞受賞作『流』の頃より、また大きく飛躍している。小手先の洗練ではなく、飛躍、なのだ。文学作品好き、楽しい小説好きの全員にすすめることができる作品だ。

※初出:「週刊文春」2017年6月1日号

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