『はぶらし』近藤史恵 幻冬舎~「図々しい〝弱者〟たちの侵略」

二年つきあってた彼氏と別れ、脚本家として一人生活している主人公鈴音は三六歳。そんな彼女のもとへ、高校時代に合唱部で三年間ともに過ごした友人である古澤水絵が、一〇年ぶりに接触してきて、あることを頼みこんでくる。

夫の家庭内暴力が原因で離婚した境遇でありながら、半年前にリストラされてしまった。慰謝料も使い果たし、親戚も頼れない状態である。住所がなければ再就職先も探せない。ひいては、子連れで一週間、独身住まいのマンションに居候させてほしい─。

〈足下がぐらつきはじめれば、あっという間に自分も同じようなことになってしまうだろう〉と考える鈴音は、その頼みを渋々のむ。そして、〈普段鈴音しかいない家〉で、〈いつもと違う人の気配が感じられる〉生活がスタートする。

まず、テレビの音に対するストレスを感じても、〈水絵がひどく恐縮していることがわかるからこそ、思っていることが気軽に口にできないのだ〉と、鈴音は他者へのおおらかな思いやりを示す。水絵の息子耕太が見ているアニメのエンディング曲が流れ、〈聞いたことのない、間の抜けた曲がテレビから流れてくる。まるで自分の家じゃないみたいだ〉と感じた鈴音はやがて、〈ひどく気詰まりだ〉と感じるようになり、自宅から徒歩七分の場所にあるワンルームの仕事場へ逃げ込みがちになってゆく。一人のときはいつも乾燥していたバスルームがぐっしょり濡れていたり、翌日までバスタブにお湯をためておくか栓を抜くか等、生活習慣の違いからくるストレスに徐々に悩まされるようになり、〈自分は、彼女に出て行けと言えるのだろうか〉という疑念さえ鈴音は抱く。

出産のタイムリミットをすぐ身近に感じてもいる鈴音に対し、居候の身である水絵は息子耕太をさし、〈大事なものがあるって、すごく怖いことなの〉と偉そうに教え諭してくる始末。そうかと思えば、母水絵がいないときに耕太は鈴音に「ママ、いつも心配してる。ここを追い出されたら、行くところがないんだって」と、いかにもとってつけたような、弱者が言いそうな言葉を口にしてくる。子供という真なる弱者から言われてしまえば、お人好しの鈴音には文句の言いようもない。

弱者の立場を利用し、手をさしのべてくれる人を踏み台にしようとする図々しさ。この関係性には、読者の誰もが馴染みを抱いているだろう。

〈そんなに迷惑かけてる……? できるだけ音を立てたり、うるさくしないように気を遣って生活しているつもりだわ〉という図々しい態度の水絵という〝侵略者〟との戦いに対処するのが手一杯で、鈴音の仕事や私生活もうまくいかなくなる。

やがて、〈人はどこまで人に優しくすべきなのだろう〉という大きな疑問に悩まされる。

これは切実であり、そして身近な問題だ。

中国や韓国といった隣国から、不当だと思われる外交政策をつきつけられても、大人の国としてどこまで受け止めるべきか、もしくはどう返すべきか。相手にやられたやり方でやり返すという怒りの応酬を〝行わない〟という優しさを、我が国はどこまで発揮するべきか。

国内の身近なところでもその図式は見られる。超高齢国家日本では介護保険が削減され、老人の面倒を家族がみるケースが増えている。しかし実際の老人たちは、弱者の立場を声高に叫びながらも、若い世代が考えるよりよほど狡猾だ。お人好しの人は主人公鈴音のように、身も心も食われてしまう。

終盤、水絵の元夫であり、耕太の実父である男が登場するが、これがまた極度に利己的で嫌な人物。その男の前ではまるで、エゴイストたる水絵が、実は悪魔のような男に虐げられていた真なる弱者かのように一瞬映る。しかし、敵の敵が強大すぎるから嫌な奴も良い奴に映るというだけで、主人公の前に現れたこの元夫婦は二人とも悪魔のように自分勝手で嫌な人物であることに変わりない。

本作では、〝わかりあえない〟ということの本質が、ストレスすらともなう執拗さでもって描かれている。

優しさをさしのべ、大人になる側には、痛みがともなう。

痛みがともなうくらいなら、優しい自分でいることを、やめてしまうべきか─。

ちょくちょく共感を挟んだ作りになっているため、表面的には心温かい建設的なヒューマン物語っぽくも仕上がっている。そういうのが好きな人、厭世的で辛口の小説が好きな人、どちらにも対応している小説だ。

初出:PONTOON2014年11月号

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