『ラブ&ピース』園子温 幻冬舎~「露出する園映画の裏側。本書単体で充分楽しめる」

ちょっと確認したところ、園子温監督の撮った映画を自分が映画館やレンタルDVDですべて観ていたことに初めて気づいた。ファン、という自覚もなかったので、びっくりした。『気球クラブ、その後』あたりから、園作品が公開されれば当たり前のように観て、面白いと感じるのもまた毎度当たり前のことだった。まるでリンゴが地面に落ちるくらいに当たり前のことすぎて、ファン(熱狂)にすらなっていないのだと思う。

本書は園子温監督作品の映画版『ラブ&ピース』を、絵と文章で表現した作品だ。決して、映画のパンフレットになにか付け足し体裁を整えたような派生本ではなく、一冊で完結した芸術作品だ。そう断言できるのは、この書評執筆時にはまだ同映画版は未公開で、僕は本書しか読んでいないのだが、充分楽しませてもらったからだ。

本書は二つのパートで構成される。前半、全六四ページ中四八ページまでが絵本になっていて、後半は「鈴木良一の闇」というタイトルの小説で作品世界が描かれる。

〈ぼくは歩く 東京を歩く。 おおまた歩きで 歩いているんだけど ビルディングのおおまた歩きには かなわない。〉

カメ目線で描かれる絵本パート。一枚の絵の中に、複数の画家が描いたんじゃないかと思わせるほどタッチの異なる人物や風景が入り乱れる独特な世界観には、圧倒される。カメはある日、ロックスターを夢見ながらも現実社会で不遇な目に遭っている男、鈴木良一にデパートの上でひろわれる。

〈カメのわたしにわかるのは 鈴木良一という男が いつも沈んでいること。〉

やがてカメは下水管を滑り落ちた先で、ある人物から「大切な人の願いを叶えられるようになる」「そのかわり君は大きくなるよ」と選択を迫られる。一年後、鈴木良一はロックスターとして大きくなっていたが、その間、カメは見えないところで大きくなり……。

小説パートはメタ的構造で、若き日の園氏を思わせる、映画監督として大成したがる主人公の一人称で語られる。

〈オレはオレの映画が観たい。/亀もオレと早く仕事をしたがっている。オレは自分の内ポケットに生で亀を入れて歩いていた。〉

やがて「オレ」は、「ピカドン」という映画の脚本を書く。その作中作である脚本の文章がとんでもないもので、風景を説明する短い文章が、無駄なくすべての視覚的情報や空気感を表す。僕は映像作品の脚本を何冊か持っているが、だいたいにおいて風景描写を期待できないそれらの中で、園氏による作中作でのわずか数行の風景説明は、そこらの写実的小説を凌駕している。密度の濃い文章はもはや脚本でも小説でもなく、詩の鋭さだ。

〈路上に舞うコンビニエンス・ストアの空袋。隅田川に浮かぶコンビニのビニール袋。まるでクラゲの様に揺れる。その傍らを船が通り過ぎる。隅田川のむこうには空中楼閣、幻影のごとく工業地帯〉

空間描写への異様なこだわりを感じる。そして、すべての園子温映画もそうだったと気づいた。東京各地の架空都市を舞台に若者たちの縄張り争いを描いたラップミュージカル『TOKYO TRIBE』での、あの箱庭感がまさにそうだ。徹底的な箱庭、空間の作り方へのこだわりが秀逸で、凡庸な作り手の何歩も先を行っているのだ。園作品は邦画の中では突出してメッセージ性や作家性の強い部類に入るが、下手したらバランスを崩し破綻させかねない作品世界を支えているのが、強固に築きあげられた風景であり箱庭なのだ。『希望の国』がいわゆる反原発メッセージ映画ではなく重厚な恐怖と愛の映画になっていたのも、人物たちではなく風景が主人公に思えるほど空間の作り上げ方が上手かったからだろう。

『愛のむきだし』以降、日本映画界に一時期モノローグを多用する監督が増えたが、彼らが使ったのは説明下手を補うためのモノローグで、園監督のそれとは似て非なるものだった。迷える登場人物たちが自分の発した言葉をフィードバックして次の行動や発言を決める一人語りは、ドストエフスキー的で、思考は非常に浅い次元で瞬間的に行われているという真実を露わにする。

それが、本書の絵本パートの筆跡にも現れている。あらかじめの構想があっても、自分の描いた一筆により、残る空白におろす次の一筆がどう動くかが不断に変更、決定されてゆく息づかいを、感じられるのだ。

本書単体で充分に楽しめるし、園子温映画の裏側に隠された、異様なほどの真面目さと真剣さに気づける、創作表現を愛するすべての人にお薦めの本だ。

初出:PONTOON2015年8月号

Follow me!