『花嫁』青山七恵 幻冬舎~「運命論的物語」
「大福御殿」とよばれる和菓子屋の家に住む妹、兄、父、母の四人家族。そこへ、兄の結婚相手である花嫁がやってくる。
〈パパは和菓子職人をしている。パパのパパは銀行員で、パパのママは書道教師だったけど〉〈それなのに、兄さんはあたしたちの完璧なカルテットに、もう一人若い女の人を加えようとしている。〉〈今兄さんは二十五歳で、あたしは二十だから、あたしは二十五歳になる前にあと三人以上経験すればよいのだ。/心のなかでも、心の外でも、常に、兄さんの先を、いっていいたい。〉
第一章での妹麻紀の語り方は統合失調症っぽい一人称だけれども、他人の観察の仕方が異様なくらいに客観的で、自分の過去のことまでかなり他人事のように書いている。自分が大事なはずなのに、あまり大事じゃなさそうにも感じられる危ういバランス感覚。饒舌に他人を語り、それと同じ距離感や温度で自分のことをも見つめる目線。
〈「麻紀。結婚というのは、二人だけの問題ではないのだ。結婚とは、未知のものを受け入れていく過程そのものであり、異なる文化の融合であり、戦争でもあり和解でもあり第三国の介入でもあり、みんなでたどりつく小宇宙なのだ」〉
麻紀の章で、父による翻訳南米文学みたいなものすごく浮きまくったセリフがはさみこまれる。驚嘆符にはじまるいちいち大げさな言い回しが多用される必然性は、実のところあまりない。海外古典文学でもってまわったような饒舌な言い回しが多いのは、文学的意匠ではなく、単に単語数で原稿料が決まるに過ぎなかったからだという理由が最近の定説になってきている。饒舌大袈裟作家の代表ドストエフスキーの影響を受けた中村文則氏なんかも、饒舌さをそぎ落とし情報濃度の濃い文章を深化させている。つまり現代日本で書かれた本作のテーマに対しこの文体がベストだとも思えないが、かといって間違ってもいないのだ。ともかく不思議な読み味。作家が海外文学から影響を受けて自作に活かす、というのはあたりまえすぎると思われるだろうが、人気作家はたいてい、自分の作風と似た本を多く読み自分ブランドを狭く深くしてゆくのが普通。というかそうしないと日本では固定ファンがつく作家になりにくい。だから、様々な海外文学をちゃんと勉強してかつ人気作品を連発する作家という点で、青山七恵は稀有な存在だ。
兄和俊の章で、
〈麻紀のことを思い出すと、まったく朝から気が重いぜ。〉
「ぜ」である。男性性を客体化して笑いをとるお笑い芸人のような語尾。そんな和俊も自分の人生を変に客観視しているのか、
〈俺はこの結婚の理由じゃなくて、結果のほうに興味があった。〉
どこか他人事のように自らを語る、運命論者的な目線。彼がもちこんだ問題で家庭が修羅場となった後、父宏治郎はおかしくなった麻紀をさし、
〈あいつ毎日ご飯もパンも食わずに大福ばっか食ってるんだぞ〉
どこか力の抜けるセリフを言う。しかし宏治郎自身の章に入ると、子供二人の視点で書かれた前二章までとは雰囲気が変わる。
〈なんてことのない、家庭生活の一場面だ。今まで何千回と繰り返されてきた夜だ。それなのに、今のたった数十秒の無言のやりとりが、どうしてその何千という夜の層をいとも容易く破って、私の人生のすべてになってしまうのだろう。〉
大袈裟な表現をする宏治郎が過去にとんでもないことをしていたのが露わとなるが、「旧花嫁」である母さおりもまたその上をゆく。
〈私はすべてのことが、最初から何もかもが、すっかり定められていたように思えてきました。〉
全員が極端かつ大げさな運命論者で、自ら行える選択というものを軽んじている。正確にいうなれば、運命的なものであると思わなければ、自分のとる行動やこれから進む道が不安で仕方がないということの逆説的な証明になっている。つまり本当は登場人物だけでなく小説の作者までもが、人智を超えた運命に憧れながら、本当はそれを信じていないのかもしれない。
作為的に用意されてしまったものは、運命ではない。しかし作為的で不本意なものであっても、運命であるとすれば、受け入れられることができる。
海外文学の書き方で日本的な人生観を巧みに書き表している、とんでもない作品だ。
初出:PONTOON2015年6月号